明日の郷土藤沢を創る会

わが街ふじさわ

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藤沢駅付近の昔

今、日本は政治・経済・社会各分野において激動を来しております。
地方政治の世界も例外ではなく、制度疲労に加え長引く不況により、財政債権団体転落の危機に直面した厳しい財政事情の下にあります。
このような時にこそ安定した自治基盤を築く好機であると思います。 今日的課題を短期・中期・長期に分類して対応すべきであると考えます。
特に国・県・市の役割分担を明確にして、効率的な行政運営を目指すことが肝要であると考えます。
今、まさに県民の目線で県政に100%精力を注ぐ多くの同志とともに神奈川県県議として活躍中です。
つきましては、ここに公約を改めて記し、その成果と今後の展望を報告いたします。
皆様の忌憚のないご意見をお聞かせください。
駅の出来る前 藤沢駅周辺は一面田畑であり、鈴木と言う性が多かったと言われております。 私の先祖は庚申堂(現在の遊行道り)付近です。 当初鉄道省の計画では藤沢宿(藤沢橋付近)に駅をつくる事になっていました。 当時は陸蒸気であり火事になってしまうのではと反対があり現在の場所に変更になったそうです。
私は、北口前に青果市場(バスターミナル付近)がありそこの裏で昭和25年に生まれ少年時代を過ごしました。 半世紀の藤沢駅周辺の推移を見てまいりました。 駅の改札や大踏切から行き交う電車や人々をじっと見、また大道小学校の窓から電車を見ながら夢を見ていた事が懐かしく思い出されます。 改札係の切符を切るカチャカチャと心地よい音、大踏切を急いで渡る人、踏切からホームに駆け上がってしまう人、蒸気機関車や貨物列車の入れ替え作業のために十分以上待たされいらいらしている人などの様子が脳裏に浮かんでまいります。 その踏切を皆、“開かずの踏切”と呼んでおりました。
特に印象に残っている事は、今上天皇ご成婚の新婚旅行のお召し列車が通過し、大道小学校校庭から一同お見送りした事がありました。
さて、当時藤沢駅は北口が表口と言いました。 市役所、高座郡役所、商店街、遊行寺などあり賑わっておりました。 一方、南口は、江ノ電や小田急線の駅がそれぞれ別々にありました。 沿線が開けるにつれ、見る見るうちに人が多くなり、とともに電車の増発も重なり、踏切では裁ききれなくなってまいりました。 当時の藤沢市の大きな行政課題になっておりました。
その対応として南北を跨ぐ人道橋が出来ましたが、それでも混雑しておりました。
折からの南口の区画整理事業が進み、現在の地下道が開通したときにやっと動線が確保でき今までにない活気をもたらしました。 その後、南北駅前の商勢が逆転し、北口でも再開発事業が行われ、昭和53年11月に完成し、南北自由通路が完成し、現在の形となりました。
経過のなかで、地下通路が出来たときの往来する人々の希望に満ちた顔が一番印象的でありました。

昭和初期の藤沢駅周辺

藤沢駅が開設されたのは、国鉄の横浜と国府津が開通した明治20年7月でした。その時は、国鉄の新橋と横浜が通じてから丁度15になりました。その当時列車は1日4往復で乗客の数は、1日当たり500前後で、藤沢と新橋間の所要時間は大体2時間近く要したそうです。
江ノ島電気鉄道が明治35年に、片瀬江ノ島まで開通し、明治43年に鎌倉市まで延長されました。昭和4年には、小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)が、江ノ島まで新宿から開通しました。
藤沢駅の北口には、常時10前後の人力車が客待ちしており、50前後の代金で江の島、鵠沼海岸まで送迎しておりました。その後、藤沢自動車が出来、タクシーの数もだんだんと増加してきました。
昭和4年頃の藤沢の町長は金子角之助氏でした。人口は22,000人(昭和3年6月)で戸数は4,500戸位でした。この頃から、藤沢本町の宿場町の商店街、白旗横町の問屋街の賑やかさがだんだんと藤沢駅周辺や銀座通りの商店街に移ってきました。しかも、小田急線が完成し運転を始めましたので、江ノ電と共に交通の便が良くなり、藤沢駅を真ん中にして、北口・南口ともたいへん人出が多くなりました。その人出につれて駅近くもいろいろな商店ができました。駅北口広場の東、遊行通りに面して稲毛屋旅館があって、広間も多く、200人近い客が一度に宴会が出来るようでした。一方、駅正面の角若松料亭も明治の中頃に開店、これも200人前後の客を収容でき、宴会や結婚式をやっていました。現在角若松は、中華料理店で続けています。その他北口には、桃花亭、仲若、三笠亭等の料亭があって、藤沢駅の汽車待ちの人や、江の島旅行の休憩場所になっていました。しかし、現在では総てありません。
駅近くの商店で当時から現在まで営業されている店は、北口では、近江堂和菓子店、中島薬局、釜七金物店、佐藤米店等です。南口には図面と多少場所が変わりますが、立花茶店、斎藤床屋、中村自転車店等がありました。
昭和の頃に北口商店街と南口商店街を結ぶ大きな踏切がありました。時間によって10分~20分も交通止めになるので、当時人々の話題になっていました。中にはくぐって歩いて行く人もおりました。
以上が私が住居していました藤沢駅近くの見聞で知ったものでした。その他昭和初期の頃の図面を調査し、又いろいろな人の図面を拝見いたし参考にして、当時の藤沢駅付近を説明させて頂ました。

MapSmall.gif
昭和初期の藤沢駅周辺図
(図をクリックすると大きな図面が見れます)

地下鉄湘南台駅

1999年8月29日に横浜市営地下鉄一号線が湘南台駅まで開通しました。
3月10日に開通した相鉄鉄道いずみ野線とともに、横浜方面へ行くのがとても便利になりました。
Poster.jpg柱に貼ってあったポスターです
湘南台駅は、
地上   小田急
地下1階 (各鉄道改札口10月上旬予定)
地下2階 市営地下鉄
地下3階 相模鉄道
となっています。

注:現在は市営地下鉄への乗り換えは東口から地下一階の改札口へ、西口からは、小田急線の仮橋上駅舎・東西連絡通路を通って東口から改札へ、相鉄への乗り換えは、小田急改札口から西口へ と ちょっと不便です。
市営地下鉄の湘南台からの所要時間は

湘南台 - 戸塚   11分 運賃 260円
- 上大岡  22分
- 関内   33分
- 横浜   39分
- 新横浜  50分
- あざみ野 66分 運賃 500円

横浜までは、相模鉄道いずみ野線を使えば29分で行くことが出来ます。

Train.jpg記念式典でのスナップです。
市営地下鉄の湘南台延長に伴い新たに次の駅が開業しました。

踊場(おどりば)
中田(なかだ)
立場(たてば)
下飯田(しもいいだ)

 

相模川八景

母なる川 ― 相模川

いつも悠々と流れ我々を温かく見守ってくれている相模川、そんな姿を郷土の誇りに思っています。 相模川の水源は富士山麓の山中湖と、その北の忍野八海です。 大月付近で笹子川を合わせて東に流れ、上野原をへて神奈川県に入ると、桂川から相模川へと名を変えます。 河口付近では、馬入川と言われております。 川の沿岸には12もの市町が接しております。 様々な自然を育み、四季折々の彩りを織りなし、歴史を重ねてまいりました。 県民への恩恵大なるものがあります。
特に今回は、相模川を代表する景観の眺望が素晴らしい「相模川八景」を紹介いたします。

SaHaPhto.jpg
相模川八景は、いきいき未来相模川プランの策定に因んで、相模川を代表する眺望の優れた場所を県民の皆さんの投票で選んだ物です。
八景の眺望点に設置してあるモニュメントには川をかたどったイラスト入りの銅版画(エッチング)が組み込まれており、紙をあてて、エンピツなどでこすると、拓本が取れ、八カ所集めれば「相模川絵図」が完成します。

鈴木つねお後援会へのお問い合わせは TEL 0466-83-2121

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